幸福の霊智

真の幸福のミチを求めて

この世とあの世を行ったり来たりの創造的な魂の人生観

私は日々霊行を中心とした生活をしている関係で一般の人とはかなり違った感覚感性で人生を生きているように思います。

霊界の存在を日常的に体験していると死生観が確実に変化します。

あの世は本当にあるのか? 人間は死んだら終わりなのか? 

あの世があるとしたら、何をして生きているのか?

この物質世界にどっぷりと浸かって生きていると霊界の存在というものが最大の疑問であり、また恐怖でもあるのだと思います。

霊界と聞くと直ぐに幽霊を思い浮かべて暗く怖い世界の様に想うのが一般的な観念だと思います。

確かにそういった闇の世界もありますが、本源的に霊界とは無限の光のエネルギーの世界であり至高芸術世界であります。

霊界の存在を正しい知識や体験として沢山持っていると確実に人生に対する取り組み方や未来に向かっての想いの持ち方が大きくプラスに変化します。

 

次の様な面白い体験もありますのでご紹介します。

あの世は確実にある。人間は死んでも性格は変わらない。

ということが感じられる実例です。

 

ある高齢のご婦人が亡くなりまして、その娘さんが私のところにやって来られました。

霊行をしている最中にその亡くなられたお母さまが娘さんの体を通じて浮霊して霊動で訴えてきました。

浮霊とは、その人の肉体に憑依していた別の霊幽体が表面に浮き上がってくることを言います。

霊動とは、その霊幽体が憑依している肉体の五官を動かして意思を伝えてくる動きのことを言います。

 その霊はモジモジしながら恥ずかしそうに語ってくるのです。口調も娘さんのものではなく御年輩の口調になって語って来ました。

 

その内容は、「生前、主人には内緒でヘソクリをしていました。ある程度、貯まったらどこか景色の良いところに二人で旅行でも行って温泉に入って美味しいものを食べてゆっくりと過ごしたいと思って貯めていたけれど、それも叶わず大病して亡くなってしまいました。せっかく貯めておいたものだから気になって仕方がない。仏壇の引き出しの裏にセロハンテープで貼り付けてあるので、見つけて残してきた主人に渡してほしい。主人と二人で旅行に行くことを楽しみにしていたけれど叶わなかったので主人の好きなように使ってくださいと伝えてほしい」ということでした。

 

念の為に、本当に母親の霊なのか、動物の霊か何かが騙してイタズラをしているのか帰宅して確認して下さい。と申し上げましたら、何と本当にヘソクリが茶封筒に入れて貼り付けてあったというのです。

そこで、あの霊は本物の母親の霊だったんだと確信に変わりました。

 

◆死んだら終わりではなく、あの世という次の次元で生きていく世界がある。

◆人間の性格は、死んでも変わらない。気になること、執着する感情も変わらない。

◆死ぬ時には何事にも執着しない様に日々を生きることが大事。

◆魂や心、精神を常に意識して向上させることをテーマに持つことが大事。

◆人間は魂が本体であり、その魂を創造して下さった神様がいらっしゃる。

◆実在している神様、御先祖様に感謝しながら家族子孫が仲良く生活すること。

 

というようなことが想いの持ち方として教えられました。お仏壇に手を合わす時の想いも形だけのものではなく、実感の伴った感謝の想いに変わったと娘さんが言っておられました。

 

人という生命体は魂が本体で永遠に生き続けている。

ですから、死んでから悟って幸せになるのではなくて、生きている時から悟って幸せな生き方をしなければなりません。

 

この世の終わりはあの世の始まりです。何も変わらないようです。今が幸せなら、あの世でも幸せ。今が争い事や喧嘩対立ばかりの不平不満の生活をしていて、あの世で天国に行く事はできません。

あの世には地獄界というのもあるようです。修羅界という場所で年中喧嘩ばかりをしている。

畜生界や餓鬼界というのもあり、動物的な生き方、馬車馬みたいに自分の儲けのことのみに明け暮れて生きているとその様な世界に行く事もあるようです。

 

「今」を生きている「想念」が最も大事だということです。

「今」の想念相応の霊界に入って行くようです。

ですから、今が天国に住む精霊のような綺麗な想念で生きることをいつも考えていることです。

 

お釈迦様の仏話の中にも次のようは教えがあります、神通力ナンバーワンの弟子と言われた目蓮が、初めて霊眼を開きあの世を見た時に亡くなった母親を見た。すると母親は餓鬼界に落ちていた。生前はふくよかであった母の魂は、ガリガリの姿で髪はボサボサで目の前にある食事を食べようとすると青白い炎になって消えてしまう。

目蓮は、「なぜこんなにも修行に励んできて徳を積んできたのに、母親はまだ地獄に落ちているのか?」と師のお釈迦様に尋ねました。

 

するとお釈迦様は次のように諭されたのです。

お前の母親は大変な資産家だったが、生前はそのお金を他人の為に使う事は一度もないほど強欲でケチな心であった。自分のお家と子孫のためのみに資産を残そうとした罪がある。

本来、物質というものは神様から地上の開拓のため、他人の幸せの為に使うものとして必要にして必要な分だけ与えられるものである。

それを自分の為のみに使うという事は神様の宇宙の法則、掟を破る想念と生き方になる。その罪はあの世に行った時に精算期がきてしまう。餓鬼界での修行はその罪のミソギをしている姿である。

お前が母親、すなわち先祖の罪を反省し神様にお詫びする想念になって、お家の代表者として先祖の罪消しをしてあげるとよい。

今は修行者達が厳しい修行の為にインド中から集まっている夏季錬成の期間であるから、その最終日にその労をねぎらうように母親の財産の一部を仏僧達に喜捨して飲食の施しをして罪を消してあげなさい。

 

目蓮は、その通りに実践した後に霊眼で再度見てみたら、元のふくよかな母親の姿に変わっていた。

救われた母親の霊は嬉しさのあまり舞いを踊りながら天上界からの光のはしごに乗って上の方へ上がっていったのが見えたそうです。

それが現代まで伝わっている盆踊りだったり、お盆供養=施餓鬼供養の意義になります。

 

この物語は、子孫が先祖の罪を積極的に消していく施しの行をすることで、先祖の霊相が浄められ霊層界が向上することを教えています。

 そして子孫と先祖は霊波線で繋がっているから、お互いの想念と行いが常に霊界と現界にて連動していることを教えています。

子孫の想念の向上と実践の行が即時に先祖に響いて、先祖の想念の向上と救われになります。

子孫のサトリが、先祖のサトリとなり、また先祖のサトリが子孫のサトリともなる。

常に霊界と現界は霊波線を通じて交流連動しているのです。

 

ですから、私たちの人生は死んでも終わりではなく、魂の修行は永遠と続いているという事です。

人生を肉体のみで考えるのではなく、魂の次元で捉えて生きて行く事が本当の人間の向上になります。

朝目覚めることが、毎日新しく生まれ変わっている。日々新たに生きる。

過去のことを引きずった想念で生きないこと。

毎日が新しい天国の人生世界を創造している想念で生きること。

 

事業が好きな経営者は、あの世に行っても事業家として生きることができる。

音楽が好きな音楽家は、あの世に行っても好きな音楽を仕事にできる。

人に物事を教える教師はその経験と能力スキルをあの世行ってからも使うことができるようです。

 

金や財産、権力などの物質界のものは死後の世界に持ってはいけないけれども、人生の中で体験、経験から培ったもの、体得した能力や感性は魂の次元のものですから、それはあの世に行っても失われることがありません。

自分の外にあるものは持って行けないけれど、自分の中にあるものはすべて持って行けるのです。

人は神様と同じように天地の世界を行ったり来たりしながら芸術的な世界創造をしているのです。

唯一無二の誰にも変わることのできない独自の人生を、素晴らしい芸術的な世界へと創造して行くことが私たちの魂の向上であり喜びとなるのです。