宇宙大法則の根本神理は全てアイ
人間には無限の力が潜在的に宿っています。
古神道ではそれを「四十八神の分けみ魂」とか「分霊」「直霊」と言ったりします。
シンプルには「魂」と言います。
人間の魂は本来、宇宙創造の神々から分かれた魂であります。
その宇宙創造、天地創造の神々の大きなみ働きは大能力・大御役として四十八通りに別れると古神道では伝えられてきました。
それが「イロハ48文字」の仮名=神名です。古来、カナは象形文字で表現されていたものが現代の片仮名になりました。
神や自然のみ働きを象で表現してきたのが象形文字でありますが、本質的には象神名(カタカナ=カタカムナ)といって、神様の御名を表していることになります。
イエス様が「神はコトバなり」「神は天地をコトバによって創った」と聖書で言われるのは、天地宇宙創造の四十八の神々のみ働き、み力でこの天地宇宙が創造されたという意味になります。
また、コトバ(言葉)は想念が現れた先端ですから、感謝の気持ち、想念が出てきた時に言葉で「ありがとうございます」と口から出てくるのです。
言葉が出る前に心の奥底の想念の世界にありがたいような気持ちが発生しているのです。
同様にして天地宇宙創造が現れてくる前に、四十八の神々の想念が発生して、その想念がみ働きとなって現象化してきたのがこの天地宇宙の森羅万象なのです。
アの神、イの神様だけでも各二十数通りくらいのみ働きがあると言われます。それがアからンまでたくさんの神々のみ働きが存在することになります。
これを言霊の秘め事と言いますが、言霊というのは天地宇宙創造の神々のみ働きをお讃えして、その御力を頂くという霊力になります。
言霊=神名は、アイウエオの母音から始まりますが、一番初めに出現したのが「ア」と「イ」で「アイ」です。
神様のアイすなわち「天意」「愛」「合」から天地宇宙の全てが「ウ」生まれたという秘め事が示されています。
天地宇宙の森羅万象の全ては天の神様のみ意=「天意」の現れであります。
そして大慈大悲観と表現されるように大きな慈しみと優しさ、大きな厳しさの両面の愛が神の大愛のみ働きとなって現れてくる。
その優しさと厳しさは、完全なる十字の「合」で「合体・和合」して現れる。
まったく相反する性格性質のものが十字に調和して、完全円満、完全偏満の偏りがまったくないゼロ、無対立無争の絶対力溢れる無限の愛が神の大愛です。
その完全な神の大慈大悲の大愛が現象となって現れてくることが根本の神理すなわち真理なのです。
世の中がどんなに混乱しているように見えていても、森羅万象発生の根本真理は一切が神のアイが現象化してきたものです。
物事すべてに最大と最小が存在していますが、その大小すべての現象化の根本に神のアイを観ることができるようになることが魂の修行であり、ヒトの霊的な向上になるのです。
嬉しく、楽しく、ありがたく思えることには誰でも神の愛を感じるけれど、辛く厳しい
悲しい時にも同じように神の愛を感じることができるようになると魂が段々と大きく神様に近づいていくのです。
すべて現象は神のアイからウまれているのです。
古来の聖者や仙人と言ったような特別な修行を積んだ方々は、言霊のみ働きやみ力を知って、その言霊の組み合わせを変えて祈ることで、神々の御力を賜り自由自在にこの現象界や自然界を動かすことができたと伝えられます。
有名な方でいうと弘法大師、空海さんが言霊の研修を深く学んで、真言を編み出して様々な奇跡的な現象を起こし幾つもの大事業を成し遂げました。
その言霊思想が文字文化、漢字文化、宗教文化、数学や科学、芸術の分野にも拡がって古代幾つもの文明が栄えた原動力となっています。
私たちヒトは元来、「霊止」という文字で表現されます。
島根県の出雲大社に行きますと立看板に「人はもと霊止なり」と表示されています。
これは四十八神のどなたかの魂を頂いた分霊であり、神からの直霊であるという意味です。
ですから、肉体や脳が人の生命体の本体ではなく、神の霊を肉体の中に宿し止めた霊的な存在の霊止であるのです。
天地創造の親神様の尊い尊い御子になる神の子であるというのが人の永遠の本質であります。
ただその自分自身の霊的本質を忘れ果ててしまって、両親から頂いた肉体が自分だと思っている人の子、親の子、肉の子だと勘違いしているのが今の人類界になっています。
神の子人類同士が無用な争いを起こし、殺し合い、奪い合い、傷付け合いをして、本来の霊止の本質から遠く離れてバラバラの暗闇の世界を造っているのです。
暗闇の世界だから人間と人間同士がお互い光を失った真っ暗闇の中で競い合って、ぶつかり合いをしているのです。
神様はバラバラになって争い合っている世界を、隅々まで浄め調和させようとしています。
世界はこれから大きく変わります。今までの常識は通じなくなります。
政治・経済・医学・教育・化学など、一切が行き詰まり現象を見せられます。
主義主張ばかりをして争っている対立競争原理は行き詰まり、無対立無争の協調原理の世界へと神様は大転換を仕組んで行かれます。
その為には、今までの固定観念、自己限定、主義主張を捨てて、中芯を確立していくことが大事です。
中心になる芯がフラフラであったり、まったく失っていることが世界がバラバラになり、混乱した不幸な世の中になっている根本原因です。
中心の中にも中心があり、その奥にも中心があり、そのまた奥にも中心があるというように、どこまでも奥に中心が存在しています。
その最奥が宇宙の中心であり、神界の中心である創造主、主神、宇宙の意思であり、その主神が宇宙創造時に定めた宇宙の根本法則、宇宙の大法則、「神理」です。
神理に人類が一体になって社会運営を行う、個人が人生を神理に基づいて行じるような世界ができてくると、本当の幸福者のみの人類社会が実現されて行くのです。
まず、自らが神理を追求し、神理を実践する生き方を研き続けて究めて行きたいと思います。
宇宙も自然も人間にも本来病気なし
今の人類は薬を金儲けのために大量に生産して、人体も自然環境も破壊し放題の世の中になってしまっています。
全世界の中でも特に日本は農薬使用量世界一、人体への薬使用量世界一の薬大好き国民になっています。
一日三食毎に食前もしくは食後に必ず飲みます。中には一回に7種類以上の薬を飲む人もいらっしゃいます。一日に21錠、一ヶ月にすると約630錠、一年にすると約7,560錠、10年飲み続けたら約75,600錠と大変な量の薬が人体の中に入ります。
10年以上、薬を飲み続けても病気は治っていない人がほとんどです。
それはそうですね、治っていないから薬を飲み続けているのです。
日本人にボケ、うつ病、寝たきりといった病気が多いのは「薬害」が原因だと専門家は指摘します。
インフルエンザ・ワクチンの使用者は毎年5,000万人にもなりますがそのほとんどは無意味だと言われます。
高血圧、高コレステロール、高血糖の薬も9割は無意味。クスリの9割に病気を治す力はなく、症状を少しの間だけウヤムヤな状態にしておくだけです。
昔から越中富山の薬売りという言葉があるように、日本では江戸時代から「置き薬ビジネス」が全国展開され、行商人が各家庭を定期的に回って薬箱の中身を補充していました。
今はドラッグストアーのチェーン展開が日本中あちらこちらに見られます。
コンビニが4万店以上あると言われますが、薬局は5万4000店とそれを上回ります。
最近では薬局内でお菓子や生鮮食料品も販売されていますので、コンビニでおにぎりを買う感覚で薬を買っているのではないかと驚いてしまいます。
薬は対症療法ですから、出ている症状を抑えているだけです。
痛くなったら、痛み止め。熱が出たら、解熱剤。かゆくなったら、かゆみ止め。
とにかくちょっとでも体調に変化があったら薬でそれを抑えようとします。
根本的に何故、どこからその熱や痛みが出て来たのかは解らないでただ症状を抑えているだけで治ったと思わせている思わせ療法にすぎません。
まだまだ根本療法や原因療法の領域には入っていないのが現代医学の現状です。
もし少しでも対症療法医学に対して不安や不審感を抱いているのなら冷静になって真実を追求してみた方がいいと思います。
1年〜2年、薬を飲んでも一向に症状が改善されないというのは、その薬には治す力はないということを証明しているようなものですからキッパリと薬信仰への執着を捨てて別のミチを求めた方がいいと思います。
そうしないと副作用の症状で更に悩み苦しみが倍々になって薬漬けの人生で終わってしまいます。
シンプルに考えてみてください。人間は年中体を動かして、何かしらのストレスを感じながら働いているのだから、体調が変化するのは生理的現象として当然ではないでしょうか。
車のエンジンに例えると、長時間走行していると熱も上がりますし、排気ガスも出ます。年中エンジンを動かしていると汚い油カスも出ますからエンジンオイルも定期的に交換しないと壊れてしまいます。
それと同じように人体にしても年がら年中動かしているのですから、どこかに熱が出たり、汚れカスが溜まったりするのは当然の原理であり生きている証です。
鼻汁鼻水や咳たんで汚いものが出るのも、皮膚から膿や汁が出るのも、下痢をしたりするのも体内の濁った汚い老廃物や体内毒素が体外に排泄されている生理現象、体内のクリーニングをしている浄化現象と捉えることができます。
そう考えると、とてもありがたい現象だと感謝することもできます。
もしこの汚れや毒素が外に出て来なかったら、体内は汚れっ放し、毒素が溜まり放題ということになってしまいます。
汚れっ放し、毒素溜まりっ放しとなるともっと重い、酷い病気になってしまう事は当然でしょう。
そうならないように体の方が自然に小出しに汚れも毒素も出してくれているのです。
体が悪くなったと思うのではなく、体が自らを助けている、浄めている凄い能力が人体には宿っていると感動します。
神様が全知全能をつくして万物の霊長として創造されたのが人間です。
元々、完全なる人体として造られていますから、何の心配も要らないのです。
神様は人間に病気といったものは造っていないのです。
病気には熱、炎症と痛みが付きものですが、これが体内の毒素をクリーニングして下さって
いるありがたい現象だということです。
熱が出てもありがたく感謝です。
皮膚から膿が出てもありがたく感謝です。
お腹が痛くて下痢してもありがたく感謝です。
咳や痰が出ても体を綺麗にしてくれてありがとうです。
何にも心配をすることはありません。自然の法則の中に生かされていることに感謝して大らかに楽しく生きて行けばいいのです。
これからの人類の医学もこのような自然の法則とおりの「宇宙も自然も人間も本来病気なし」の根本原理に還る世界を創造しなければいけないと思います。
この世とあの世を行ったり来たりの創造的な魂の人生観
私は日々霊行を中心とした生活をしている関係で一般の人とはかなり違った感覚感性で人生を生きているように思います。
霊界の存在を日常的に体験していると死生観が確実に変化します。
あの世は本当にあるのか? 人間は死んだら終わりなのか?
あの世があるとしたら、何をして生きているのか?
この物質世界にどっぷりと浸かって生きていると霊界の存在というものが最大の疑問であり、また恐怖でもあるのだと思います。
霊界と聞くと直ぐに幽霊を思い浮かべて暗く怖い世界の様に想うのが一般的な観念だと思います。
確かにそういった闇の世界もありますが、本源的に霊界とは無限の光のエネルギーの世界であり至高芸術世界であります。
霊界の存在を正しい知識や体験として沢山持っていると確実に人生に対する取り組み方や未来に向かっての想いの持ち方が大きくプラスに変化します。
次の様な面白い体験もありますのでご紹介します。
あの世は確実にある。人間は死んでも性格は変わらない。
ということが感じられる実例です。
ある高齢のご婦人が亡くなりまして、その娘さんが私のところにやって来られました。
霊行をしている最中にその亡くなられたお母さまが娘さんの体を通じて浮霊して霊動で訴えてきました。
浮霊とは、その人の肉体に憑依していた別の霊幽体が表面に浮き上がってくることを言います。
霊動とは、その霊幽体が憑依している肉体の五官を動かして意思を伝えてくる動きのことを言います。
その霊はモジモジしながら恥ずかしそうに語ってくるのです。口調も娘さんのものではなく御年輩の口調になって語って来ました。
その内容は、「生前、主人には内緒でヘソクリをしていました。ある程度、貯まったらどこか景色の良いところに二人で旅行でも行って温泉に入って美味しいものを食べてゆっくりと過ごしたいと思って貯めていたけれど、それも叶わず大病して亡くなってしまいました。せっかく貯めておいたものだから気になって仕方がない。仏壇の引き出しの裏にセロハンテープで貼り付けてあるので、見つけて残してきた主人に渡してほしい。主人と二人で旅行に行くことを楽しみにしていたけれど叶わなかったので主人の好きなように使ってくださいと伝えてほしい」ということでした。
念の為に、本当に母親の霊なのか、動物の霊か何かが騙してイタズラをしているのか帰宅して確認して下さい。と申し上げましたら、何と本当にヘソクリが茶封筒に入れて貼り付けてあったというのです。
そこで、あの霊は本物の母親の霊だったんだと確信に変わりました。
◆死んだら終わりではなく、あの世という次の次元で生きていく世界がある。
◆人間の性格は、死んでも変わらない。気になること、執着する感情も変わらない。
◆死ぬ時には何事にも執着しない様に日々を生きることが大事。
◆魂や心、精神を常に意識して向上させることをテーマに持つことが大事。
◆人間は魂が本体であり、その魂を創造して下さった神様がいらっしゃる。
◆実在している神様、御先祖様に感謝しながら家族子孫が仲良く生活すること。
というようなことが想いの持ち方として教えられました。お仏壇に手を合わす時の想いも形だけのものではなく、実感の伴った感謝の想いに変わったと娘さんが言っておられました。
人という生命体は魂が本体で永遠に生き続けている。
ですから、死んでから悟って幸せになるのではなくて、生きている時から悟って幸せな生き方をしなければなりません。
この世の終わりはあの世の始まりです。何も変わらないようです。今が幸せなら、あの世でも幸せ。今が争い事や喧嘩対立ばかりの不平不満の生活をしていて、あの世で天国に行く事はできません。
あの世には地獄界というのもあるようです。修羅界という場所で年中喧嘩ばかりをしている。
畜生界や餓鬼界というのもあり、動物的な生き方、馬車馬みたいに自分の儲けのことのみに明け暮れて生きているとその様な世界に行く事もあるようです。
「今」を生きている「想念」が最も大事だということです。
「今」の想念相応の霊界に入って行くようです。
ですから、今が天国に住む精霊のような綺麗な想念で生きることをいつも考えていることです。
お釈迦様の仏話の中にも次のようは教えがあります、神通力ナンバーワンの弟子と言われた目蓮が、初めて霊眼を開きあの世を見た時に亡くなった母親を見た。すると母親は餓鬼界に落ちていた。生前はふくよかであった母の魂は、ガリガリの姿で髪はボサボサで目の前にある食事を食べようとすると青白い炎になって消えてしまう。
目蓮は、「なぜこんなにも修行に励んできて徳を積んできたのに、母親はまだ地獄に落ちているのか?」と師のお釈迦様に尋ねました。
するとお釈迦様は次のように諭されたのです。
お前の母親は大変な資産家だったが、生前はそのお金を他人の為に使う事は一度もないほど強欲でケチな心であった。自分のお家と子孫のためのみに資産を残そうとした罪がある。
本来、物質というものは神様から地上の開拓のため、他人の幸せの為に使うものとして必要にして必要な分だけ与えられるものである。
それを自分の為のみに使うという事は神様の宇宙の法則、掟を破る想念と生き方になる。その罪はあの世に行った時に精算期がきてしまう。餓鬼界での修行はその罪のミソギをしている姿である。
お前が母親、すなわち先祖の罪を反省し神様にお詫びする想念になって、お家の代表者として先祖の罪消しをしてあげるとよい。
今は修行者達が厳しい修行の為にインド中から集まっている夏季錬成の期間であるから、その最終日にその労をねぎらうように母親の財産の一部を仏僧達に喜捨して飲食の施しをして罪を消してあげなさい。
目蓮は、その通りに実践した後に霊眼で再度見てみたら、元のふくよかな母親の姿に変わっていた。
救われた母親の霊は嬉しさのあまり舞いを踊りながら天上界からの光のはしごに乗って上の方へ上がっていったのが見えたそうです。
それが現代まで伝わっている盆踊りだったり、お盆供養=施餓鬼供養の意義になります。
この物語は、子孫が先祖の罪を積極的に消していく施しの行をすることで、先祖の霊相が浄められ霊層界が向上することを教えています。
そして子孫と先祖は霊波線で繋がっているから、お互いの想念と行いが常に霊界と現界にて連動していることを教えています。
子孫の想念の向上と実践の行が即時に先祖に響いて、先祖の想念の向上と救われになります。
子孫のサトリが、先祖のサトリとなり、また先祖のサトリが子孫のサトリともなる。
常に霊界と現界は霊波線を通じて交流連動しているのです。
ですから、私たちの人生は死んでも終わりではなく、魂の修行は永遠と続いているという事です。
人生を肉体のみで考えるのではなく、魂の次元で捉えて生きて行く事が本当の人間の向上になります。
朝目覚めることが、毎日新しく生まれ変わっている。日々新たに生きる。
過去のことを引きずった想念で生きないこと。
毎日が新しい天国の人生世界を創造している想念で生きること。
事業が好きな経営者は、あの世に行っても事業家として生きることができる。
音楽が好きな音楽家は、あの世に行っても好きな音楽を仕事にできる。
人に物事を教える教師はその経験と能力スキルをあの世行ってからも使うことができるようです。
金や財産、権力などの物質界のものは死後の世界に持ってはいけないけれども、人生の中で体験、経験から培ったもの、体得した能力や感性は魂の次元のものですから、それはあの世に行っても失われることがありません。
自分の外にあるものは持って行けないけれど、自分の中にあるものはすべて持って行けるのです。
人は神様と同じように天地の世界を行ったり来たりしながら芸術的な世界創造をしているのです。
唯一無二の誰にも変わることのできない独自の人生を、素晴らしい芸術的な世界へと創造して行くことが私たちの魂の向上であり喜びとなるのです。